先週は娘(7歳、小1)の忘れ物が激しかった。
火曜日には「図書室で借りた本を道で落とした」事件が勃発し、木曜日には国語の教科書を紛失。
さらに金曜日に保護者会があり妻が娘の学校の机の中をチェックしたところ、枯葉とぐしゃぐしゃになったプリントの山、そして「行方不明だ」と散々主張していたはずの鉛筆17本が発掘された。
実際のところ、図書室の本は「道の途中で落とした」わけではなく机の中にあり、国語の教科書は今週になって、隣の席の子が間違えて持って行ってしまっていたことがわかり、一安心だが・・・。
記憶が曖昧なわが娘。。。。
娘を擁護するために少し説明すると、私と娘とは血縁関係がなく、妻の連れ子である。
生誕から今年の1月(6歳)までをタイ国バンコク都で過ごし、その後わが家族の一員となった。驚異的なペースで日本語を習得し、さらなるハイペースでタイ語を一切忘れて今に至る(もはや発音すらままならない)。
さて、小学校一年生のメモリスペック/インプットプロセスが平均的にどのようなものなのか、世のお母様方にご助言頂きたくもあるが、そもそも「忘れる」ってどういうことなのか。考えてみる。
「×××を忘れた」と書くことはできる、が少し微妙な感じがする。
この発話をする/記述をする瞬間には、「×××」を忘れることの是非/事後対応をすでに判断できているからだ。
「×××を忘れた」(とりにいかなきゃ)
「×××を忘れた」(まあ、特に大したことではないからいいか)
通常はこのように場面が進むと思う。
ということは、この場面内での「×××」の位置づけを、発話者はすでに理解している。
娘について言えば、帰宅後に宿題の本読みを行うにあたって、「教科書がない」ということに気付いた。教科書がなくなった⇒教科書の紛失に気が付いた、という間には、娘の頭に「教科書がどこにあるか」という問いそのものは存在しなかったのだと思う。
これが「忘れる」なのだとすると、考えるべきは、ある場面に遭遇したときに、その場面に「あるべき」もの(構成物)を把握できる力の方なのかもしれない。
忘れ物をしない、というのは、現在その場面に参入していない状態で、近い未来のその場面の構成物を把握できる能力のことをいう...ということなのだろうか。
こんな風に定式化してみると、この能力は未だ来ない未来だけではなく、過ぎ去った過去についても同様で、そしてもちろん、それを把握する私は、今現在の私であるので、今現在の私のバイアスがかかった状態での、場面構成把握となる。
ついでに言えば、場面構成に綻びがある、と感じその穴を思考によって埋めることもある(推論)。
以前、保坂和志(世界を肯定する哲学)などで出てきた、「場所の記憶」の考え方が頭から離れないために、こういう風に感じているのかと思う。
もちろん、これらの考えが娘の忘れ物対策につながる気配はまったくない。
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